1833年(0歳) |
5月7日、ドイツのハンブルクに生まれる。 |
1839年(6歳) |
父から音楽の手ほどきを受ける。 |
1840年(7歳) |
ピアノ教師のコッセルに師事。 |
1843年(10歳) |
父の主催する演奏会に出演。作曲家でピアニストのマルクスゼンに師事。 |
1844年(11歳) |
ホフマン学校に入学。 |
1845年(12歳) |
マルクスゼンに本格的に作曲と音楽理論を学ぶ。 |
1846年(13歳) |
家計を助けるために酒場、ダンスホールなどでピアノ演奏のアルバイトをする。 |
1848年(15歳) |
ヴィンセンで村の合唱団を指揮。9月、初の演奏会を開催、好評を得る。 |
1851年(18歳) |
自己批判により作品を破棄してしまう。これにより以前の作品は記録のみで楽譜は残っていない。 |
1852年(19歳) |
「ピアノソナタ第2番」作曲。 |
1853年(20歳) |
レメーニーと一緒に演奏旅行を行う。生涯親交のあったヴァイオリニストのヨアヒムと出会い、ヨアヒムの勧めでワイマールでリスト、 デュッセルドルフでシューマン夫妻と出会う。またシューマンに認められ、「新音楽時報」に紹介される。 |
1854年(21歳) |
シューマンが自殺未遂をはかり精神病院へ。シューマン一家と交流始まる。 |
1855年(22歳) |
デュッセルドルフに移住。指揮者・ピアニストとして本格的に活動開始。 |
1856年(23歳) |
シューマン死去。 |
1857年(24歳) |
9月、デトモルトの宮廷に勤務。 |
1858年(25歳) |
アガ-テ・フォン・シーボルトと婚約するも破局。 |
1859年(26歳) |
ハンブルクで女声合唱団結成。 |
1862年(29歳) |
初のウィーン旅行。11月、演奏会を開く。 |
1863年(30歳) |
ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任。翌年辞任しハンブルクへ戻る。 |
1865年(32歳) |
母、ヨハンナ死去。 |
1867年(34歳) |
オーストリア、ハンガリーに演奏旅行。 |
1868年(35歳) |
デンマーク演奏旅行。「ドイツ・レクイエム」初演。「ハンガリア舞曲集第1・2集」出版。 |
1871年(38歳) |
普仏戦争の勝利を祝い「勝利の歌」作曲し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に献呈。 |
1872年(39歳) |
父ヨハン死去。秋にウィーン楽友協会芸術監督に就任。 |
1875年(42歳) |
ウィーン楽友協会芸術監督に辞任。 |
1876年(43歳) |
「交響曲第1番」初演。大成功をおさめる。 |
1877年(44歳) |
「交響曲第2番」作曲。 |
1879年(46歳) |
「ヴァイオリン協奏曲」初演。 |
1880年(47歳) |
「悲劇的序曲」作曲。「ハンガリア舞曲集第3・4集」出版。 |
1881年(48歳) |
「ピアノ協奏曲第2番」作曲。ブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、その返礼として「大学祝典序曲」作曲。 |
1883年(50歳) |
「交響曲第3番」作曲。 |
1885年(52歳) |
「交響曲第4番」作曲。 |
1887年(54歳) |
プロセインから功労勲章授与。 |
1889年(56歳) |
レオポルト勲章授与。ハンブルク名誉市民権授与。ヨハン・シュトラウスと交友を深める。 |
1890年(57歳) |
「弦楽五重奏曲」作曲。 |
1895年(62歳) |
オーストリア皇帝から「芸術と科学に対する」大勲章を授与される。 |
1896年(63歳) |
5月、クララ・シューマン死去。夏頃に体調を崩し病気が発覚する。 |
1897年(63歳) |
4月3日、肝臓癌のため死去。ウィーン中央墓地に埋葬される。 |