1810年(0歳) |
3月1日、ワルシャワに誕生。 |
1814年(4歳) |
姉や母からピアノの手ほどきをうける。 |
1817年(7歳) |
宮廷ピアニスト、シヴニーにピアノを学ぶ。 |
1818年(8歳) |
ラシヴィウ宮殿で最初の演奏会を行う。 |
1822年(12歳) |
ワルシャワ音楽院長のエルスネルから和声と対位法を学ぶ。 |
1823年(13歳) |
ワルシャワ高等中学校4学年に編入。 |
1825年(15歳) |
「ロンド ハ長調」発表、出版。 |
1826年(16歳) |
ワルシャワ音楽院に入学。 |
1827年(17歳) |
妹エミリアが肺炎のため死去。 |
1829年(19歳) |
初のウィーン訪問。2度の演奏会を開く。 |
1830年(20歳) |
「ピアノ協奏曲第1番」初演。ワルシャワからウィーンへ。 |
1831年(21歳) |
ウィーンを去りパリへ。
「エチュード第12番『革命』」、「ワルツ第1番『華麗なる大円舞曲』」「ノクターン第1番〜5番」作曲。 |
1832年(22歳) |
プレイエルホールで演奏会を開き大成功を収める。
「エチュード第3番『別れの曲』」作曲。 |
1834年(24歳) |
このころ「幻想即興曲」作曲。 |
1835年(25歳) |
5年ぶりに両親と再会。マリア・ヴォジンスキと恋。 |
1836年(26歳) |
マリアに求婚。やがて自然消滅的に破局。リストの紹介で女流作家ジョルジュ・サンドと知り合う。 |
1837年(27歳) |
「ピアノソナタ第2番『葬送』」作曲。 |
1838年(28歳) |
パリを離れ。マジョルカ島でサンドと生活を始める。
「ポロネーズ第3番『軍隊』」作曲。 |
1839年(29歳) |
喀血し一時健康状態悪化。パリに戻る。 |
1841年(31歳) |
プレイエルホールで演奏会を開き成功を収め、翌年のリサイタルでパリでの不動の地位を築く。 |
1842年(32歳) |
「ポロネーズ第6番『英雄』」作曲。 |
1843年(33歳) |
このころから健康状態悪化。 |
1844年(34歳) |
父ニコラス死去。「ピアノソナタ第3番」作曲。 |
1846年(36歳) |
「ポロネーズ第7番『幻想』」、「チェロソナタ」作曲。 |
1847年(37歳) |
「ワルツ第6番『小犬のワルツ』」作曲。ジョルジュ・サンドと決別。 |
1848年(38歳) |
プレイエルホールで最後の演奏会。旅先のロンドンで生涯最後の演奏会を開く。 |
1849年(39歳) |
持病の結核が悪化。姉ルドヴィカと再会後、10月17日、死去。 |