1770年(0歳) |
12月16日、ドイツのボンに生まれる。 |
1776年(6歳) |
父より音楽の手ほどきを受ける。 |
1777年(7歳) |
ボンの下級学校ラテン語学科に入学。 |
1778年(8歳) |
ケルンでピアノ公開演奏会に初出演。 |
1784年(14歳) |
無給の宮廷オルガニスト助手に任命される。後に親友となるヴェーゲラーに出会う。 |
1785年(15歳) |
宮廷オルガニストに正式就任。フランツ・リースにヴァイオリンを師事。 |
1787年(17歳) |
第1回ウィーン旅行。母マリア死去。 |
1789年(19歳) |
ボン国民歌劇場管弦楽団のヴィオラ奏者となる。ボン大学に入学。 |
1790年(20歳) |
ハイドンに会う。 |
1792年(22歳) |
ウィーン留学。ハイドンに作曲を師事。12月、父ヨハン死去。 |
1795年(25歳) |
3月、ブルク劇場の慈善音楽会で「ピアノ協奏曲第2番」等を演奏し公開デビュー。年末、リヒノフスキー侯と第1回プラハ旅行へ。 |
1798年(28歳) |
「ピアノソナタ第8番《悲愴》」作曲。このころより聴力が低下しはじめる。 |
1799年(29歳) |
ブルンスヴィク伯爵令嬢テレーゼとヨゼフィーネにピアノを伝授。 |
1801年(31歳) |
親友ヴェーゲラーに手紙で難聴を告白する。
「ピアノソナタ第14番《月光》」作曲。 |
1802年(32歳) |
耳の容態悪化。自殺も考え「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。 |
1805年(35歳) |
「交響曲第3番《英雄》」初演。
オペラ「レオノーレ」第1稿上演。大失敗に終わる。 |
1806年(36歳) |
「レオノーレ」第2稿上演、またも失敗。「ヴァイオリン協奏曲」初演。 |
1807年(37歳) |
「ピアノソナタ第23番《熱情》」出版。 |
1808年(38歳) |
「交響曲第5番《運命》」、「第6番《田園》」、「合唱幻想曲」初演。
ヴェストファーレン国王から宮廷楽長として招かれる。 |
1810年(40歳) |
テレーゼ・マルファッティに求婚、断られる。 |
1811年(41歳) |
「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」初演。 |
1812年(42歳) |
7月、テープリッツで「不滅の恋人への手紙」を書く。 |
1813年(43歳) |
「交響曲第7番」初演。 |
1814年(44歳) |
「レオノーレ」を改訂し、オペラ「フィデリオ」初演。大成功を収める。 |
1815年(45歳) |
11月、弟カール死去。以後、弟の遺児カールの後見人としての権利を実母のヨハンナと裁判で争う。 |
1816年(46歳) |
このころより筆談帳を使用し始める。 |
1818年(48歳) |
「ピアノソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》」作曲。 |
1820年(50歳) |
裁判に勝訴しカールの後見人となる。 |
1821年(51歳) |
健康状態悪化。翌年にかけて「ピアノソナタ第32番」作曲。 |
1824年(54歳) |
「ミサ・ソレムニス」、「交響曲第9番《合唱》」初演。 |
1825年(55歳) |
ウィーン楽友協会名誉会長に選任される。
「弦楽四重奏曲第15番」初演。 |
1826年(56歳) |
甥カールが自殺未遂をはかる。
激しい腹痛、さらに通風にも悩まされる。12月、全身に黄疸症状、腹水が極度に増加し腹水をとる1回目の手術。 |
1827年(56歳) |
1〜2月にかけて3回の手術。3月26日死去。 |