いろはにクラシック

ベートーヴェンの生涯



ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ドイツ)
Ludwig van Beethoven (1770〜1827)

「第九」が初演されたケルントナートーア劇場(ウィーン)
古典派音楽を大成しロマン派への足がかりを築いた音楽史上希有の作曲家。「楽聖」と称されます。
ドイツ西部の都市ボンに生まれ、司教兼選帝侯に仕える宮廷歌手であった父から音楽を学んだ。しかし父はアルコール依存症であり、そのために14歳頃から家計を支えなければなりませんでした。
ピアニストとして有名になり、30歳のころには作曲家としても高い評価を得るようになっていましたが、音楽家として致命的な聴力が減退しはじめ、絶望して「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたのは有名です。
数々の苦難を乗り越えて、交響曲、協奏曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲などに傑作を数多く残して、後世の作曲家に与えた影響は計り知れない。

 ベートーヴェン年譜
1770年(0歳) 12月16日、ドイツのボンに生まれる。
1776年(6歳) 父より音楽の手ほどきを受ける。
1777年(7歳) ボンの下級学校ラテン語学科に入学。
1778年(8歳) ケルンでピアノ公開演奏会に初出演。
1784年(14歳) 無給の宮廷オルガニスト助手に任命される。後に親友となるヴェーゲラーに出会う。
1785年(15歳) 宮廷オルガニストに正式就任。フランツ・リースにヴァイオリンを師事。
1787年(17歳) 第1回ウィーン旅行。母マリア死去。
1789年(19歳) ボン国民歌劇場管弦楽団のヴィオラ奏者となる。ボン大学に入学。
1790年(20歳) ハイドンに会う。
1792年(22歳) ウィーン留学。ハイドンに作曲を師事。12月、父ヨハン死去。
1795年(25歳) 3月、ブルク劇場の慈善音楽会で「ピアノ協奏曲第2番」等を演奏し公開デビュー。年末、リヒノフスキー侯と第1回プラハ旅行へ。
1798年(28歳) 「ピアノソナタ第8番《悲愴》」作曲。このころより聴力が低下しはじめる。
1799年(29歳) ブルンスヴィク伯爵令嬢テレーゼとヨゼフィーネにピアノを伝授。
1801年(31歳) 親友ヴェーゲラーに手紙で難聴を告白する。
「ピアノソナタ第14番《月光》」作曲。
1802年(32歳) 耳の容態悪化。自殺も考え「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。
1805年(35歳) 「交響曲第3番《英雄》」初演。
オペラ「レオノーレ」第1稿上演。大失敗に終わる。
1806年(36歳) 「レオノーレ」第2稿上演、またも失敗。「ヴァイオリン協奏曲」初演。
1807年(37歳) 「ピアノソナタ第23番《熱情》」出版。
1808年(38歳) 「交響曲第5番《運命》」、「第6番《田園》」、「合唱幻想曲」初演。
ヴェストファーレン国王から宮廷楽長として招かれる。
1810年(40歳) テレーゼ・マルファッティに求婚、断られる。
1811年(41歳) 「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」初演。
1812年(42歳) 7月、テープリッツで「不滅の恋人への手紙」を書く。
1813年(43歳) 「交響曲第7番」初演。
1814年(44歳) 「レオノーレ」を改訂し、オペラ「フィデリオ」初演。大成功を収める。
1815年(45歳) 11月、弟カール死去。以後、弟の遺児カールの後見人としての権利を実母のヨハンナと裁判で争う。
1816年(46歳) このころより筆談帳を使用し始める。
1818年(48歳) 「ピアノソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》」作曲。
1820年(50歳) 裁判に勝訴しカールの後見人となる。
1821年(51歳) 健康状態悪化。翌年にかけて「ピアノソナタ第32番」作曲。
1824年(54歳) 「ミサ・ソレムニス」、「交響曲第9番《合唱》」初演。
1825年(55歳) ウィーン楽友協会名誉会長に選任される。
「弦楽四重奏曲第15番」初演。
1826年(56歳) 甥カールが自殺未遂をはかる。
激しい腹痛、さらに通風にも悩まされる。12月、全身に黄疸症状、腹水が極度に増加し腹水をとる1回目の手術。
1827年(56歳) 1〜2月にかけて3回の手術。3月26日死去。





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