1810年(0歳) |
6月8日、ドイツのツヴィッカウにて誕生。 |
1816年(6歳) |
最初のピアノレッスンを受ける。 |
1820年(10歳) |
ギムナジウムに入学。 |
1822年(12歳) |
最初の作品を試みる。 |
1826年(16歳) |
父アウグスト死去。 |
1828年(18歳) |
ライプツィヒ大学に入学。ヴィークにピアノを習い始め、クララに出会う。 |
1829年(19歳) |
ハイデルベルク大学に入学。 |
1830年(20歳) |
ヴィークの内弟子となる。 |
1831年(21歳) |
ハインリッヒ・ドルンに作曲を師事。 |
1832年(22歳) |
右手の指が麻痺。ピアニストの道を断念。 |
1834年(24歳) |
翌年にかけて全21曲のピアノ曲「謝肉祭」作曲。
音楽評論家としても活動をはじめる。 |
1836年(26歳) |
母ヨハンナ死去。師ヴィークから絶縁状。娘クララと交際禁止。 |
1837年(27歳) |
翌年にかけて全8曲のピアノ曲集「幻想小曲集」作曲。 |
1838年(28歳) |
全8曲のピアノ曲集「クライスレリアーナ」作曲。ピアノ曲「子供の情景」作曲。 |
1840年(30歳) |
ヴィークとの法廷闘争に勝訴。クララと結婚。
歌曲「リーダークライス」、「詩人の恋」、「女の愛と生涯」作曲。歌曲の年。 |
1841年(31歳) |
「交響曲第1番《春》」初演。「交響曲第4番」初稿。交響曲の年。 |
1842年(32歳) |
「ピアノ五重奏曲」作曲。 |
1843年(33歳) |
ライプツィヒ音楽院教授に就任。 |
1845年(35歳) |
「ピアノ協奏曲」完成。翌年、クララをピアノ独奏者にライプツィヒで初演され、成功を収める。 |
1846年(36歳) |
「交響曲第2番」初演。 |
1850年(40歳) |
デュッセルドルフ市音楽監督に就任。「交響曲第3番《ライン》」作曲。 |
1851年(41歳) |
「交響曲第4番」改正。 |
1853年(43歳) |
ブラームスと知り合い、雑誌「新音楽時報」に紹介し賞賛。 |
1854年(44歳) |
ライン川に身を投げて自殺未遂。ボンの精神病院に入院。 |
1856年(46歳) |
クララと最後の面会となった日の2日後、7月29日、死去。 |