いろはにクラシック

ショパンの生涯



フレデリック・ショパン(ポーランド)
Fryderyk F Chopin (1810〜1849)

19世紀のパリの光景
手前はセーヌ川、中央はコンコルド広場のオベリスク
ロマン派の代表的なピアノ作曲家。
ポーランドのワルシャワ近郊ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれた。
4歳の時からピアノのレッスンを受け、またたく間に才能を発揮し始め、8歳時には公開演奏を行い、第2のモーツァルトの登場とまで言われるまでになった。
15歳には最初の作品を出版し、その後、祖国を後にしウィーン、パリへと移住して活躍の場を求めていきます。パリの社交界で有名になり、演奏会でピアニスト、作曲家としての名声を確立していきます。
女流作家のジョルジュ・サンドと出会い、サンドとの生活の中で、持病の結核に苦しめられながら多くの名曲を作曲していきました。
晩年は病状が悪化して作曲活動もままならず生涯を終えます。39歳で亡くなるまで愛する祖国ポーランドに帰れることはなかった。
作品のほとんどがピアノ作品であり、ノクターン、ポロネーズ、エチュード、ワルツ、ソナタなどに傑作を残しました。独特な書法による華麗で優雅な旋律、並びに哀愁に満ちたピアノ音楽を創造し「ピアノの詩人」と称される。

 ショパン年譜
1810年(0歳) 3月1日、ワルシャワに誕生。
1814年(4歳) 姉や母からピアノの手ほどきをうける。
1817年(7歳) 宮廷ピアニスト、シヴニーにピアノを学ぶ。
1818年(8歳) ラシヴィウ宮殿で最初の演奏会を行う。
1822年(12歳) ワルシャワ音楽院長のエルスネルから和声と対位法を学ぶ。
1823年(13歳) ワルシャワ高等中学校4学年に編入。
1825年(15歳) 「ロンド ハ長調」発表、出版。
1826年(16歳) ワルシャワ音楽院に入学。
1827年(17歳) 妹エミリアが肺炎のため死去。
1829年(19歳) 初のウィーン訪問。2度の演奏会を開く。
1830年(20歳) 「ピアノ協奏曲第1番」初演。ワルシャワからウィーンへ。
1831年(21歳) ウィーンを去りパリへ。
「エチュード第12番『革命』」、「ワルツ第1番『華麗なる大円舞曲』」「ノクターン第1番〜5番」作曲。
1832年(22歳) プレイエルホールで演奏会を開き大成功を収める。
「エチュード第3番『別れの曲』」作曲。
1834年(24歳) このころ「幻想即興曲」作曲。
1835年(25歳) 5年ぶりに両親と再会。マリア・ヴォジンスキと恋。
1836年(26歳) マリアに求婚。やがて自然消滅的に破局。リストの紹介で女流作家ジョルジュ・サンドと知り合う。
1837年(27歳) 「ピアノソナタ第2番『葬送』」作曲。
1838年(28歳) パリを離れ。マジョルカ島でサンドと生活を始める。
「ポロネーズ第3番『軍隊』」作曲。
1839年(29歳) 喀血し一時健康状態悪化。パリに戻る。
1841年(31歳) プレイエルホールで演奏会を開き成功を収め、翌年のリサイタルでパリでの不動の地位を築く。
1842年(32歳) 「ポロネーズ第6番『英雄』」作曲。
1843年(33歳) このころから健康状態悪化。
1844年(34歳) 父ニコラス死去。「ピアノソナタ第3番」作曲。
1846年(36歳) 「ポロネーズ第7番『幻想』」、「チェロソナタ」作曲。
1847年(37歳) 「ワルツ第6番『小犬のワルツ』」作曲。ジョルジュ・サンドと決別。
1848年(38歳) プレイエルホールで最後の演奏会。旅先のロンドンで生涯最後の演奏会を開く。
1849年(39歳) 持病の結核が悪化。姉ルドヴィカと再会後、10月17日、死去。





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