いろはにクラシック

ハイドンの生涯



フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(オーストリア)
Franz Joseph Haydn (1732〜1809)

シュテファン大聖堂(ウィーン) 1830年頃
ウィーン古典派の中心人物。100以上の交響曲や多数の弦楽四重奏曲の形式の基礎を確立し、「交響曲の父」と呼ばれてます。
ハンガリーの国境近くのローラウ村に生まれた。音楽家の家庭ではなかったが6歳までに才能をあらわし、親戚の音楽家に預けられてレッスンを受けた。また、ハイドン自身美声の持ち主でシュテファン大聖堂の少年聖歌隊員となり、教養を得ていきました。
その後フリーの音楽家として活動していき、エステルハージ公爵家に仕えると長きに渡って楽長を務めながら、交響曲、室内楽曲、ピアノ曲、オペラ、オラトリオやその他宗教曲などほぼすべてのジャンルに作品を残した。
親交のあったモーツァルトの才能を誰よりも理解し、またモーツァルトも最も尊敬
する作曲家として「弦楽四重奏曲」を献呈しています。パパ・ハイドンと愛称されて
いるように楽長を務めていた楽団員からの人望も厚く人格者であったとされます。

 ハイドン年譜
1732年(0歳) 3月31日、オーストリア東部ローラウに誕生。
1740年(8歳) ウィーンのシュテファン大聖堂の合唱団、聖歌隊に入る。
1749年(17歳) 聖歌隊解雇される。以後8年間はピアノ教師、臨時のオルガニスト、ヴァイオリニストなど務めて生計を立てる。
1755年(25歳) フェールンベルク男爵家の室内楽奏者となる。
1759年(27歳) ボヘミアのモルツィン伯爵家の楽長に就任。
1760年(28歳) マリーア・アンナ・ケラーとウィーンで結婚。
1761年(29歳) エステルハージ侯爵家の副楽長に就任。
1766年(34歳) 前任の楽長の死去にともない楽長に昇進。楽団強化される。
1777年(45歳) オペラ「月の世界」初演。
1781年(49歳) 「ロシア四重奏曲」作曲。
1785年(53歳) モーツァルトから「ハイドン四重奏曲」の献呈をうける。
1786年(54歳) パリの出版社から6つの交響曲の作曲を依頼される。
「交響曲82〜87番(パリ交響曲集)」作曲。
1790年(58歳) エステルハージ侯爵死去。楽団縮小のため、楽長の肩書きはそのままウィーンに転居。
1791年(59歳) ロンドンでザロモン演奏会に出演。大成功を収める。
オックスフォード大学から名誉音楽博士号を授与される。
「交響曲第93〜96番」作曲。
1793年(61歳) 翌年にかけて「交響曲第99〜101番」作曲。
1795年(63歳) 2度目のロンドン訪問、オペラコンサート開催。
「交響曲第102〜104番」作曲。
1796年(64歳) エステルハージ侯爵家から楽団再建の依頼を受け、楽長職に復帰。
1797年(65歳) 「エルデーディ四重奏曲」作曲。その中には弦楽四重奏曲「皇帝」も含まれる(現ドイツ国歌)。
1798年(66歳) オラトリオ「天地創造」作曲。
1800年(68歳) 妻マリーア・アンナ死去。
1801年(69歳) 最初の遺言書を作成。オラトリオ「四季」初演、「天地創造」公開初演。
1804年(72歳) エステルハージ侯爵家の楽長を辞す。
1809年(77歳) 第二回遺言書を作成。5月31日死去。




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