1756年(0歳) |
1月27日、ザルツブルクに生まれる。 |
1760年(4歳) |
父にグラヴィーアを習い始める。 |
1761年(5歳) |
最初の作品を作曲する。 |
1762年(6歳) |
1〜2月、ミュンヘンへ旅行、9月からウィーンへ。 |
1763年(7歳) |
1月、ザルツブルク帰郷。
6月、西方大旅行。ドイツ、ベルギーをへてパリへ |
1764年(8歳) |
ヴェルサイユ宮殿にてルイ15世に拝謁。4月、ロンドンへ。
5月、ヨハン・クリスチャン・バッハ(大バッハの末子)に出会う。 |
1765年(9歳) |
最初の交響曲を作成。ロンドンを出発。 |
1766年(10歳) |
1〜2月、アムステルダム滞在、7〜8月、パリ滞在。
11月、ザルツブルクに帰郷。 |
1767年(11歳) |
最初のオラトリオ作曲。9月、ウィーンへ |
1768年(12歳) |
最初のオペラ作曲。 |
1769年(13歳) |
第1回イタリアへ旅行へ出発する(足がけ3年)。 |
1770年(14歳) |
7月、教皇クレメンス16世より黄金拍車騎士勲章を授与される。
ボローニャでマルティーニ師に音楽理論を学ぶ。 |
1771年(15歳) |
ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカから名誉楽長の称号を授与。 |
1773年(17歳) |
3月、ザルツブルクに帰郷。7月、ウィーン旅行中に女帝マリア・テレジアに拝謁。「交響曲第25番」作曲。 |
1774年(18歳) |
「交響曲第29番」作曲。 |
1775年(19歳) |
ザルツブルクで宮廷音楽家として過ごす。 |
1777年(21歳) |
宮廷音楽家を辞す。母とともにマンハイム、パリ旅行へ出発。新しい就職先を探す目的だったが失敗。 |
1778年(22歳) |
前年マンハイムで知り合った歌手のアロイジア・ヴェーバーに恋するが失恋。7月、母マリア・アンナを病気のため死去。 |
1779年(23歳) |
1月、ザルツブルクに帰郷。宮廷オルガニストに復職。 |
1781年(25歳) |
コロレド大司教と決裂し、ウィーン定住を決意する。
移住先はアロイジアの家族のヴェーバー家。 |
1782年(26歳) |
父の同意を得られないまま、コンスタンツェ・ヴェーバー(アロイジアの妹)とシュテファン大聖堂で結婚。 |
1783年(27歳) |
「交響曲第35番《ハフナー》」初演。
長男誕生するも2ヶ月後に死去。 |
1784年(28歳) |
次男カール・トーマス誕生。フリーメイソンに入会。 |
1785年(29歳) |
前年?に知り合ったハイドンに大きな影響を受け、自宅に招待し「ハイドン四重奏曲」を演奏する。「ピアノ協奏曲第21番」作曲。 |
1786年(30歳) |
オペラ「フィガロの結婚」上演。三男誕生するも1ヶ月後に死去。
「交響曲第38番《プラハ》」作曲。 |
1787年(31歳) |
5月、父レオポルト死去。
「セレナード(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)」作曲。
オペラ「ドン・ジョヴァンニ」初演。
12月、宮廷作曲家の称号を授与され、同月長女テレジア誕生。 |
1788年(32歳) |
6月、長女テレジア死去。
三大交響曲と称される「交響曲第39〜41番」を相次いで作曲。 |
1789年(33歳) |
妻が病気になり経済状態が悪化、プッフベルクに経済的援助
を申し込む。「クラリネット五重奏曲」作曲。 |
1790年(34歳) |
オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」初演。家計が窮迫。 |
1791年(35歳) |
聖シュテファン教会の無給の副楽長に任命される。経済状態は最悪でブッフベルクへの借金がかさむ。
9月、四男クサーヴァー誕生。同月、オペラ「魔笛」完成&初演。
「クラリネット協奏曲」作曲。
11月、健康を崩し、病床につきながらも「レクイエム」の作曲を続けたが未完成のまま12月5日死去。 |